新興宗教にはご用心
これは、2005年4月7日のメルマガの記事そのまんまです。 若干私自身の体験と、伝聞により書いています。 新聞で見て驚きました。牧師さんの強制わいせつですか? ん〜?何か聞いたことある名前だなと思っていたら、よく車でその教会の前を通ってるんですね。 ちょっと、変わった感じの教会でしたが、新興のところは何でもありだもんな〜と思ってたら、そこまでありだったとは・・・ まあ、信仰と性欲は別物です。正しく昇華する方法が無ければ、どうにか処理しなければなりません。 しかし、だからと言って信仰心を試すなんていって、そんなことしちゃぁ・・・ ちょっと悲しいですね。 これがちゃんと一対一の人間の感情の元でのことなら、私は気にならないのですが・・・ しかし、それを断りきれなくなってしまうと言うのが、カリスマが引っ張っていく新興宗教(伝統宗教でもそうですが・・・)の 怖いところでもあります。 外にいたら、そんな馬鹿な〜と言う所ですが、中にいるとなかなかきづくことができません。 それにしても、邪な新興宗教には賢い所もありまして、自分たちを誹謗中傷するサイトや本は 読むと地獄に落ちるとか、自分の心の声は悪魔のささやきだから信じちゃいけないとか言ったりしています。 そうしないと、自分たちのおかしい所がばれちゃうからなんですね。 そう言えば、一心不乱に祈って、疑問や不信の気持ちを振り払えと言うような感じの指導をしている所もありましたね。 これも同じです。 精神世界の扱うものと宗教の扱うものは、多くが重複しそしてほとんど境界がはっきりしないものもたくさんあります。 だから、宗教をやる気が無かったのに、気が付けば宗教の方に足を踏み入れているような場合も多々あります。 別に構わないのですが・・・ですが、精神世界から入り込みやすい宗教と言うのはどうしてもカルト的要素の強い所が多いのですね。チャネリングや超能力、瞑想などが媒体になりますから。 だから、レイキに興味を持っている人も気をつけてくださいね。 ハイヤーセルフとか高次の意識とかに目を奪われていると気が付くと、そちらの方へ流されてしまいます。 その行き着いたところが悪ければ大変なことになりますよ。 自分の活動や興味が宗教の領域に入ったかな?と思ったら必ず確かめてみてください。 そこの人たちは自由意志をもって話をしているか?時には自分の信じる神に対する疑念を持つことも許されているか?教祖やリーダーが絶対視されていないか? とにかく危険なのは、教祖が特別な存在、たとえば神の化身、神の依代と定義されていたり、神の代理人とか神の意思をうかがうことのできる特別な存在のように言われていたり、信者に思われている所は危険です。 レイキを学べばわかるはずですね。本来全ての人が神の意志を直接うかがうことができるのです。 そして、必要なのは代わりにメッセージを受け取る教祖やリーダーではなく、同じようにメッセージを受け取れるように助言をくれる人なのです。 ですから、わずか一項目でも、教祖のみが受け取れるものがある、できることがある、他の人はひっくり返ってもできないと言う項目があるところには近づかないに限ります。 必ずチェックしてくださいね。 ただ、こう言いながらも一部そういう例で本物かな?と思えるものもあるのも事実ですが、やっぱりはずれの方が圧倒的に多いです。 人生をかけた博打やってみたいですか? そんなに焦って魂を向上させなくても良いんですよ。自分のペースで社会生活をほどほどに守りながら向上していけば十分に合格です。 補足:平成26年 霊性・魂の向上という概念はとても危険をはらんでいると今は考えています。 波動を上げるという考えも同様です。 それらは、上げようと言う意識で上げるものではないからです。 上げようとする意識はエゴです。 自分を有利な状態にしたいという比較の意識です。 そのような意識に基づいた行動は見かけの向上は示すでしょう。 見かけの向上とは自分のエゴが、向上したらこうなるはずだと言う期待した姿に近づくことです。 同様のエゴにまみれた人たちには、その人は崇高な人になったと見えることでしょう。 しかし、その中身は上昇するどころか、地下深くに根っこを張って自由を失ってしまった魂でしかありません。 本当に自由になることが悟りであり解脱です。 それは結果に執着しての行為では絶対に至れない境地です。 道元禅師が悟るために座るのではなく、ただ座るのだと言ったのは結果と行為が同一であることが悟りであり、その意識での生活が今を生きると言うことであるのです。 それはこうすればこうなるという未来に訪れる結果を期待しての行為とは全く違う次元なのです。 結果を求めた時点でその人は今を生きてはいないのですから。 だから、魂の向上を目指した時点で、魂は向上しないことが確定するのです。 |