脳は刺激を求めている
妻の運転で車に乗っている時に、閃いた。 「外部からの脳への刺激を止めると、脳は内部で刺激の自家発電を始める。」 一つは、妄想。 一つは幻聴や幻視など。 一つは他者との交信。 脳はどんな刺激であっても、外部から刺激がある限りは退屈を感じない。 だから、ぼーっと何時間も電車に揺られていても窓の外を見ていたら飽きないでいられる。 嫌な仕事であっても、一切何も出来ないで閉じ込められているよりかはずっと充実した時間を過ごしていると感じる。 ゆっくりと走る車では退屈に感じだすことがあるが、スピードの出る車に乗っていると退屈を感じる暇はない。 それは視覚から入ってくる刺激の量が速度に比例して増えるからだ。 それ以外にも刺激を増やす方法はいくらでもある。 とにかく、刺激がないと脳は退屈を訴える。 究極に退屈な状態、瞑想による強制的な無思考の状態が続くと声が聞こえたり、人の気配を感じるのは理に適っている。 そうしないと脳が暇で暇でしょうがないからだ。 だから、瞑想の最初の段階で見えるものは、本気にしてはいけない。 これはエゴの発する声だからだ。 ほんの少し潜在意識からの情報をからめるから信憑性のありそうな情報もでてきたりもする。 それが深まっていくと、意志が脳の発する暇だと言う信号すらもコントロールし始める。 脳のストレスは最高潮に達する。 五感からの刺激への反応を止められ、脳が勝手に刺激を作り出してありもしない物を見る事も許されないからだ。 すると脳は五感を通じての刺激の収集手段を諦めて、別の手段で外部との接触を図りだす。 守護霊や、精霊、ハイヤーセルフとの通信が起こる。 脳がストレスに耐え兼ねて、完全に開放されるのだ。 瞑想などで得られる、第六感やインスピレーションとはこのレベルのものだ。 決して瞑想の真似事で得られるものと同じにしてはいけない。 しかし、みんながそう言うレベルに達する必要はない。 そんなことをしなくても、魂の成長はできるのだから。 何も見えなくていい、聞こえなくてもいい。 それが必要ないから凡人は見えない聞こえない。 それでも今の人生の目的は達せられるからそうだと言うことを理解しないといけない。 |