悟り?覚醒?レイキとの関係2
それに対して、「覚醒」とは何でしょう? 「悟り」に対して、「覚醒」と言う言葉の印象はとてもダイナミックに感じます。 クンダリニーの覚醒、意識の覚醒のように使われるこの言葉の元々は「目覚める」と言うことですから、当然と言えば当然。 今まで眠っていたものが起きてきて活発に動き出すと言う意味ですから。 そして、この覚醒が起こって欲しいと望む人に共通する意識があります。 それは、自分の願望を叶えたい、という事です。 ここが「悟り」を志向する人との大きな違いとも言えます。 「悟り」を志向する人は願望成就よりも、心の平安を望みますが、「覚醒」を志向する人は、より動的な調和を望みます。 覚醒を望む人は「何かの理解」よりも「何かを変える力」を期待します。 ですから、新たな業を生産する可能性が非常に高い。 実際「覚醒した」と自称する人の中には、人の欲望を突っついて、誤った道を歩ませてしまう人が多い。 その理由は「覚醒」はしたのかもしれないですが、「理解」をしていないからです。 理解のない力は暴走するのです。 だから、しっかりとした下積み修行の無い人がクンダリニーの上昇をさせてしまったり、チャクラを全開させるとおかしなことになるのです。 本人は今までに無い知覚の中で生きているから、舞い上がってしまって人の言うことを聞く耳を持たなくなります。 そして、今まで感じ得なかったことを感じるようになり、それこそ全知全能の存在にでもなったかのような錯覚に陥ります。 しかし、心の修行が出来ていないために、実際には知覚したものを正しく理解できていない。 だから、新しい苦しみをばら撒くことにならざるを得ません。 そして、こういう人は本当の理解もしていないのに、大誤解のままに自分は悟ったからいろいろなことを感じ取れるのだと思うようになります。 そう言う人がレイキ業界にも沢山いるでしょう? |