どう生きてきたかではなくどう生きているか
死後、どういう世界に行くかを決めるのは死んだときにどういう思いでいたかによって決まると言う話を聞いたことがあります。 これがどういう意味かと言えば、過去にどれだけ良いことをしていたかは、その人の未来に対して意味を成さないということです。 未来を決めるのは今がどうかだけ。 じゃあ、今まで徳をしっかり積んできた人も、今まで徳を積んでなくこの瞬間にそう言う人と同じ心境に至った人が同じなのか?という事を考える人もいるかと思います。 中には、じゃあ、ちびちび良いことをしてちびちび徳を積んでもしょうがない。 死ぬ一瞬に改心したら良いんでしょ?それまでは、享楽的、刹那的な生き方をしていた方が良いじゃない、と考える人も出てくることでしょう。 本当にそれで良いのか? そう言う思いでいたい人はそれで良いんじゃないかと思います。 でも、いざと言うときにどういう心境になるかは、結局その人がどう言う生き方をしてきたかがものを言うんじゃないのかな〜とも思います。 今まで世のため人のためと生きてきた人格者の人がいたとして、その人が死に際にエゴ丸出しの無様な往生際であったとしたら、やはりその人のそれまでの生き方というのは、本物ではなかったと言うことなのでしょう。その過去は計算に入れられない。 もしかして、本物であったとしても前世の借金を支払いきれていないために、ぼろが出てしまうのかもしれない。 逆に散々好き勝手していても、往生際がさっぱりとした、きれいなものであったとすれば、誰にも気付かないところで、本人も自覚の無いところで徳を積んでいたのかもしれないし、前世の貯金がそうさせるのかもしれない。 どちらにしてもその心境に見合った死後の世界に旅立つことになります。 そんなことを考えていると、結局死ぬときまでどうなるか分からないから、思うようにやっていたら良いじゃんとも思ってしまう。 しかし、魂が行き続けると言う前提から行けば、死ぬときに悪想念を発していわゆる地獄に行くとしても、やはり真剣に生きていくのが筋ではないのだろうか。 損得勘定で徳を積むと言うのではなく、多くを学び、この宇宙の摂理について理解・体得していくことが、今「自分」が在る理由なのではないかと思う。 一度や二度、死後の世界が地獄であっても良いじゃない。 それを恐れて、表面的に良い子にしてもしょうがない。 表面的に良い子にしていても、苦しくなったら本性が出てくるのが人間だから。 私が言いたいのは、一度の人生で学びきれずにじたばたしながら死を迎えることがあったとしても、真剣に学ぶ努力を惜しまないでいたいという事。 徳を積むのは大切だけど、己の利益のためにと考えて、徳を積むというのは成り立たない。 そこには大きな矛盾があるのだ。 本当の意味での学びを求めれば、知らず知らずに徳は積まれていくものなのだと思う。 |