目の前に現れるものに意味のないものはない
こう言うホームページを見にくる人なら、似たような言葉を聞いたこと何度もありますよね? 私もそうです。 また、ちょっと違いますが、「現実は過去の思考の結果である」とか「過去に蒔いた種を収穫しているのが今である」なんて言葉もよく使われます。 「目の前に・・・」と言うと、そこには意味があって、これから何かを学びなさい、気付きなさいと言うことなんですね。決して過去の行いや因縁と結び付けての考えではない。 まあ、上の二つも目の前の現象は過去の行いの産物だからよく反省することで未来を良い方へと導けますよ、と言う意味でもありますが、どちらかと言えば、あきらめのためや満足のために使う言葉であり、どちらかと言うと未来志向ではありません。 特に嫌なことや不快なことが予期せぬところから現れて、そこで「それは過去の思考の産物」と言われてもな〜と余計に混乱してしまいます。 しかし、ここで「目の前に現れるものは・・・」と考えると、これは一体何に気付けということなんだろう?このレッスンの目的は何だろう?と言う発想でとらえられるようになるんですね。 まあ、人ができてくるとどちらの発想でも怒りに任せて感情を爆発させることはなくなりますが、私のような未熟者ではそうは行きません。 過去の自分に思い当たることが無ければ、感情が暴走します。 しかし、そこにレッスンの意図があると感じられればぐっとこらえて考えてみようと思えます。 答えを探すことに目が向いて、冷静さが戻ってきます。 正直言いまして、このHPはそうやって作られてきました。 つまりこのHPは私の学びの課題の答案用紙でもあります。 課題は本を読んでいて疑問に思ったり、よそのHPを覗いていてムカムカっと来たときに授かったり、ヒーリングをしていたり、このHPの来訪者の方の質問や相談メールのやり取りの中に浮かび上がってきたり・・・とにかくいろいろなところで、これはどういうことなんだろう?何故この人はこんなことを思ったり言ったりするのだろう?どうしてこんなことをできるんだろう?と次から次へと出てきます。 そして、私はその答えを求めます。その答えは書物の中にあったり、よそのHPの中にあったり、目の前の出来事の中にあったり、みなさんのメールの中にあったりします。 私はひたすらそれを記録していくだけです。 多分、目の前の出来事を「過去の行いの結果」としてとらえていたら、このHPはここまで来なかったと思います。 そこに意味があり、学びがあり、学んだことを共有したいと思って来たからこそ、少しずつアクセス数も増えて今のような形ができてきたのだと思います。 つまり、その課題の出題者と採点者はみなさんなのかもしれません。 学びの機会を与えてくださり、本当に感謝しています。 ありがとうございます。 |