悟りについて2
悟りについて1の続きです。 ____________________________________________ > なんというか、すごく苦しい状況に自分が置かれているとして、その状況を変えることが不可能なときに、 >その中でも自分の状態が安定していられる道を探 して、安定していられるようになった時に、 > 一段階悟っているっていうことを、ある友達を見ていて思いました。 はい、それは悟りの第一歩です。 つまり受け入れることが出来るようになったと言う事です。 自分に与えられた状況はどうもがいても変りようがありません。 普段の苦難を伴わない状態は、たいていの人はそのまま受け入れて生活をするのですが、 ほんの少しの苦労でも、いきなり状況は変ります。 愚痴が飛び交い、人のせいにしてみたり・・・そんなことをしても何も変らない、それらは自分では分からないなりにも、過去の自分の行いが原因となって訪れたと思えば、それは受け入れるしかないものです。 でも、その道を探ることコトこそ、一般で言う「努力」なのですよ。 > その人は悟るための努力ではなく、自分が楽に生きられる道を探した為に達観できるようになっていました。 > 悟りってそういうことなのかなって思いました。 そうです。 悟りは目標ではありません。 悟りは幸福への究極の手段です。 それは過程でしかありません。 苦しみから脱却する道を探していると、求めずとも通らざるを得ない道なのです。 お釈迦様が真理を求めたのは苦しみから人を救う道を求めたからです。 ですから、悟りを得ても苦しみが残れば全く無意味です。(これは論理的に矛盾するのですが・・・) 逆に悟りを得たと言う自覚がなくても、何事があっても心の平安が乱されない道に至れば、仏教では目的は達せられたとも言えるのです。 結果的にはそれは悟った状態ともいえるからです。 _____________________________________________ つまりは、超人願望で悟りを求めるのは、外道なのです。 その願望こそが苦しみの元なのですから。 といっても、その願望で悟りへの道を歩み始めて、仮に悟れば、その願望自体がどうでも良くなっているはずですから、結局はきちんと悟るなら、どこからスタートしても良いと言うことでもありますね。 |