私は2010年頃から禅に関心を持つようになりました。
別に座禅の修行を日々行うような熱心さはありませんが・・・
ただ、禅の追求するそぎ落としたシンプルな在り方がレイキと相性が良いように思われたのです。
レイキは自動調整です。
それはヒーリングの結果について、自分の意志でどうにかしようとするのでは無く、ただ宇宙の法則性を信じて、その時に起こるべきが起こるのだと宇宙を信頼してただ手を当てれば良いということです。
この在り方は座禅の時の心の在り方ととても似ています
禅は何も求めない
まじめに座禅に取り組んでいる訳ではありませんが、さまざまな禅に関する本を読んでは気持ちが盛り上がり、座禅をしてみたりします。
その時に、あらゆる座禅に関する本に書いてあるように、思考を手放すことを目指します。
雑念が沸いてきても、その雑念に引きずられてあれこれ考えることのないように注意をして、ただ浮かんでくるイメージを眺めます。
そして、それらが消えていくのを見つめています。
すると、調子の良い時にはすぅっと、何も考えていないのに、目の前にあるものを見つめ、ただ自分の心をみつめるだけの状態に入っていることがあります。
そんな時には、その時に抱えている問題についても何も思うこともありません。すべては起こるべくして起こり,消えるべくして消えていくのだと直感的に分かっているような感じです。
その心の状態の心地良いことと言ったらありません。
これが悟りだと言うつもりは毛頭ありません。
しかし、このときの心には何かを求める気持ちは全くなくなります。
全ては宇宙の運行に任せておけば良い。自分のすることも,自分の意志と言うよりは、業(カルマ)によって、やるべきことを順にしていけば良い、と言う心境になります。
おそらく、禅というのはそのように、自分の思惑で何かをしようという心をそぎ落としてくれるのでしょう。
何も求めないと言うのは、レイキが自動調整されることに信頼をおいてただ手を当てる時の心の在り方そのものでは無いでしょうか。
そこにはエゴが介入する余地はありません。
自分の意志でヒーリングをする。と思ってしまうと、我々はどうしてもその結果についても気になってしまいます。
いくらレイキが自動調整されるものであったとしても、その結果についてあれこれ口出ししたくなるのが人の心ですが、これこそがエゴでは無いでしょうか。
純粋に誰かのためと言っても、それが宇宙の法則に背いてでもその人の要求を満たすのだと言うのであれば、それはやはりエゴなのです。
そのことに気付かずに、レイキをする時に自分の納得する結果を求めて、あれこれと鍛錬をしたり、いろいろなテクニックに手を染める人がいます。しかし、それでは、エゴの要求を満たすとしても、宇宙の法則に従った結果とは言えません。
つまり、それでは本当の意味での最善とはならないのではないでしょうか?
禅的な意識をもってレイキをすれば、何も求めることはありません。
ただ、委ねれば良いのです。
その結果はヒーラーとヒーリーのカルマそれぞれに従ったことが起こるのです。
それぞれのエネルギーが引き起こす現象をレイキがサポートします。
そうやって起こる現象こそが、ヒーラーとヒーリーのもつカルマを解消するための最善の結果なのでは無いかと思います。
人のエゴが介在しなければ、カルマのエネルギーは解放されていく方向に働くのが宇宙の法則ですから。
そんな訳で、私はレイキをする時にはする時には何も考えていません。
妄想がいっぱいであれこれ考えてしまうような時でも、レイキの結果については一切考えません。そこだけは宇宙の法則を信頼して、レイキが自動調整されることに委ねるのです。
おひさまレイキではそのようなレイキをお伝えします。
巷のスピリチュアルな感じの、レイキを使って自分の思いを実現していくことで人生をより豊かにしていこうという方向性とは違いますが、本来のレイキの在り方を考えれば、エゴを増強しかねない自己実現メソッドとしてのレイキは、エゴの鎧を強化して余計に自分の心の自由自在な在り方のジャマになるのでは無いでしょうか。
エゴの働きが最小限に抑えられた時にこそ、人はとらわれから自由になれるのですから。
そんな禅的なレイキの在り方を私は目指しています。